「清洲橋通り」南は入谷から三ノ輪へと通じる、北は神田川を渡る美倉橋〜馬喰横山、東日本橋と過ぎて〜隅田川に架かる清洲橋へと至る。
4・5年前迄この清洲橋通りと浅草通りが交差する稲荷町駅の角にランドマーク的な存在の永寿病院(昭和初期の建築)があった。 院内のエレベーターは手動で鉄柵をガシャリと開閉して乗る・・真ちゅう製の表示板の文字がアンティークに輝いて、階段や通路も狭かったが地元の人達の拠り所で、私の母も何度となくお世話になった。 現在は上野寄りの西町公園の隣接地に、巨大なビルを建て規模を拡大して永寿病院の看板が架かる。 そして取り壊された跡地には商業ビルが建てられ、1階のフロアにはCafe'のチェーンE 店が入っている。
大きな通りをつなぐ横の道には、個人商店が・・八百屋、クリーニング店、寿司屋、履物屋、何かの取次店、段ボールで埋まる営業所、自販機で武装した酒屋、そして子供の自転車が停まる町医者・・と、さしあたりの日常生活が送れる、駅も近く数えきれない程の寺も控えている。
■豆腐屋が昔の侭の店構えで人気があり客が絶えず集って来る、そこの裏側へと廻り込むと背中合わせの路地にびっしりと・・古い人家が密集している、見上げるとサビた物干の一部が今にも抜け落ちてきそうに傾いている。
そして入って来た道の他は身体の巾だけの極狭い家のスキ間が見える、私はもっぱらカニ歩きで楽しんで抜けて出るが傘は使用不可です。
■2軒長屋の写真は隣に全く同じ家作が以前あって、落語家で名人と云われた林家正蔵・・晩年の彦六師匠が慎ましく生活をしていた場所だった。 弟子の一人で普段はおちゃらけの木久蔵さんが、この時代の話しを愛情込めて時々されるが・・これは至芸です。
ーラフな洋服でハンチングを被りステッキを握った姿を、稲荷町駅の近辺で何度かお見受けした、お互い歩道で先を譲り合った事もあったー
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